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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和59年(う)72号 判決 1985年12月19日

主文

原判決中被告人に関する部分を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人田中勇雄、同泉政憲、同菊池利光、同川崎敏夫、同北尾強也、同渡邊俶治連名の控訴趣意書(差戻前の当審第四回公判において、弁護人田中勇雄名義の控訴趣意書の一部訂正申立書記載のとおり、控訴趣意書の一部を訂正する旨陳述)及び弁護人原田香留夫名義の控訴趣意補充書に、これに対する答弁は、検察官有村秀夫名義の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一本件公訴事実と審理経過等

一本件公訴事実は「被告人は、Z組傘下丙組組長であるが、かねて丁組対Z組、戊会との対立抗争が激化していたところ、右丁組の勢力を潰滅するため、同組組長B(当五三年)を拳銃で殺害しようと企て、

第一  昭和五二年四月一日ころ、大阪市〇〇〇区××町一丁目一四番二九号所在の被告人宅に丙組組員Cを呼びよせ、同所において、右Cに対し、『お前のほかにもう一人つけるが、お前がリーダーとなつてBをやつてくれ。』等と言つて前記Bを殺害するよう命じたうえ、同月五日ころ、前同所において、右Cに対し、回転弾倉式五連発拳銃(三八口径)一丁とその実包六発及び回転弾倉式六連発拳銃(三二口径)一丁とその実包六発を手渡し、同人をして右命令に従い右拳銃で前記B殺害の決意をさせて、殺害の教唆をし、よつて、Cにおいて、Z組傘下甲組若頭補佐D、Z組傘下丙組内己組組員E、Z組傘下甲組内戊会石川県支部組員F、右戊会石川県支部長Gと順次共謀のうえ、右C、D、E、Fの四名が、同月一三日午後一時ころ、福井県□□郡三国町△△○番地所在の珈琲専門店『』ことH方店舗に至り、同店舗において、殺意をもつて、右Fが、おりから同店に客として来ていた前記Bの身体めがけて、所携の回転弾倉式五連発拳銃で三発発射し、その右背部、左大腿部に各一発、右Eが、右Bの身体めがけて、所携の回転弾倉式六連発拳銃で一発発射しその右背部にそれぞれ命中させて、胸部及び腹部盲管銃創、左上大腿部貫通銃創の傷害を負わせ、同日午後一時一〇分ころ、同所において、同人をして、前記胸部及び腹部銃創により出血死させて、殺害の目的を遂げた。

第二  法定の除外事由がないのに、同月五日ころ、前記被告人宅において、回転弾倉式五連発拳銃(三八口径)一丁とその実包六発及び回転弾倉式六連発拳銃(三二口径)一丁とその実包六発を所持していたものである。」というのである。

二次いで、本件審理の経過をみてみるに、原審である福井地方裁判所は、昭和五四年二月一五日、本件公訴事実全部につき被告人を有罪と認め、被告人を懲役二〇年(未決勾留日数三五〇日算入)に処した。この判決に対して、弁護人から控訴の申立がなされ、名古屋高等裁判所金沢支部(以下「差戻前当審」という。)は、昭和五六年四月一四日右の控訴を棄却(当審における未決勾留日数六五〇日算入)した。そこで、右判決に対して被告人及び弁護人から上告の申立があり、最高裁判所第三小法廷は、昭和五九年四月二四日、本件公訴事実中、延岡ら四名によるB殺害の実行行為を除く被告人の殺人教唆等(けん銃及び実包の所持を含む。)に関する直接証拠として、わずかに、原審で刑訴法三二一条一項二号後段の書面として取り調べられた差戻前当審相被告人C(以下「C」という。)の検察官に対する昭和五二年六月二〇日付及び同月二一日付各供述調書(以下、この二通を合わせて「C検面調書」という。)があるのみで、原審及び差戻前当審ともにその信用性を肯定したが、その証拠価値には疑問を容れる余地があり、かつ、被告人のアリバイ主張についての差戻前当審の審理判断は粗略の感を免れず、差戻前当審で取り調べられた証拠のみによつて右主張を排斥することは許されないのであつて、この点につき、さらに審理を尽くさせる必要がある旨判示して、右控訴審判決を破棄したうえ、名古屋高等裁判所に差し戻した(以下「上告審判決」という。)。

三そこで、当審において、上告審判決が指摘した諸点を中心に、さらに事実の取調を実施するとともに、原審及び差戻前当審で取り調べた記録を調査して慎重審理を遂げた結果、本件公訴事実につき被告人を有罪と認める直接証拠としては、C検面調書が存するのみであるが、同調書については、種々の問題点があり、その信用性に疑いが残るとの結論に達した。なお、被告人は、共謀によるB殺害等を被疑事実として昭和五二年八月三一日逮捕され、その取調を受けて以来、現在に至るまで終始一貫、否認の態度を崩さず、寃罪を強く訴え続けており、また、Cについても、C検面調書のほかに、これと大綱において同旨のCの司法警察員に対する昭和五二年五月一六日付供述調書(以下「C員面調書」という。)が存在するが、これらを除いてその前後においては、右供述内容を否定する供述を繰り返し、さらに、そのほかC検面調書の一部を裏付ける内容を含むIの司法警察員に対する供述調書が存するが、C員面調書とともに、いずれも、差戻前当審において、刑訴法三二八条の弾劾証拠として取り調べられているに過ぎないことに注意しなければならない。

第二控訴趣意の論旨とこれに対する当裁判所の判断

一控訴趣意中、訴訟手続の法令違反の主張について<略>

二控訴趣意中、事実誤認の主張について

論旨は要するに、原判決は、被告人に対する本件公訴事実を認める唯一の直接証拠であるC検面調書につき、その記載が簡略にすぎ、矛盾点を包含していることを認めながら、Cの飲酒遊興の事実、組を異にする共犯者のDとCとの結び付き及びCが涙を流しながら被告人から殺人の教唆を受けた事実を自供した状況等の検討を通じて信用性を肯定し、被告人に対する公訴事実につき有罪を認定しているけれども、C検面調書の供述採取過程における問題点と、供述内容の合理性を検討すれば、C検面調書はとうてい信用できないものであり、原判決は右の信用性の評価を誤つた結果、事実を誤認したものであつて、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで、所論にかんがみ、C検面調書の信用性について、上告審が指摘するところをも踏まえながら、原審及び差戻前当審において取り調べられた各証拠に、当審で新たに取り調べた証拠をも併せて検討すると、結局、C検面調書には以下述べるような問題点があつて、その信用性に疑問が残るものといわざるをえない。

(一)  C検面調書の要旨は、「私は、昭和五二年四月一日の昼間、自宅で寝ていると、Iの『親分から電話よ。』という声で起こされ、親分から直接電話をめつたにもらつたことがなかつたので、何か重大な話があるのだろうと思い、電話口に出ると、親分が、『今身体があいちょるんか。』と尋ねるので、あいている旨答えると『それなら今晩の七時に家へ来い。』と親分にいわれ承諾した。それから家を出て、タクシーで約束の午後七時ころ親分方へ行き、親分からの直接の呼び出しで、何か重大なことがあるとの予感を持つていたので、組事務所には顔を出さず、親分の家を良く知つているので、誰の案内もうけずに右手の応接間に入ると、そこに親分一人応接セツトに座つて私が来るのを待つていた。私もそこの椅子に座つたところ、親分は私に『死んでくれへんか。Bをやつてくれんか。』といつたので、私はB組長を殺せという意味だと判つたが、私が鉄砲玉となつてB殺害に行くなどとは思いもよらず驚いてしまつた。しかし親分の命令は絶対であり、その場で引き受けると、親分は『お前の他にもう一人誰かをつけるが、お前がリーダーとなつてやつてくれ。お前の他に誰が行くか、何時行くか決まつたら、後から連絡する。』といつた。話は五分位で終わつた。私は同月五日ころの昼、親分の家へ行つて、事務所で電話番をしていた若い者に親分がどこにいるか尋ねると、寝ていると答えたので、私一人で二階の寝室に上がり、寝ている親分を起こすと、親分から『応接間に待つちよけ。』といわれて一階応接間で一人待つていると、しばらくして親分も来て二人とも椅子に座り、私が親分に『早う行つた方がいいと思いますが、道具は二丁欲しい。』というと、親分は『家へ帰つておけ、電話する。』というので自宅に帰つた。しばらくすると親分から電話がかかつて、すぐこいといわれたので親分の家へ行き、このときも事務所に顔を出さず、誰の案内もなく一人で応接間に入ると、親分が一人で待つており、応接セットの机の上には、裸のままのけん銃二丁と紙に包んだ実包、帯封のしてある一万円札の束二個計二〇〇万円が置かれていたので、けん銃二丁はいつもしている腹巻に仕舞い込み、紙に包んだ実包は背広のポケットに入れ、現金二〇〇万円は封筒に入つていたので手に持つて、親分に『八日に行きます。後のこと、妻のことはよろしく頼みます。』というと、親分も『うん、頼むぞ。』といい、そのまま応接間を出て事務所に顔は出さず、組の者にあいさつもせず自宅へ帰つた。親分と会つていた時間は二、三分と思う。」というのである。

(二)  原判決がC検面調書の信用性を認めた理由

原判決は、C検面調書が信用できる理由として、(1)Cは、昭和五二年四月二日午前二時ころ、普段とはいささか異なる酔態を示して帰宅し、以後大阪を出発する前日である同月七日まで、Iや知人数名を伴つて遊興を重ねた事実が認められ、この事実は、同月一日Cに対し、第三者からのB組長殺害の働きかけがあつたことを十分に推認させるものであり、また、C及びD両名が同月三日ないし四日にB組長殺害に関する会合を持つたことも否定しがたく、したがつて、C検面調書の記載内容は、被告人から教唆を受けた日時及びDとの会合等の教唆事実と密接に関連する客観的事実と符合し、しかも、これらの事実は、CがB組長殺害を決意した動機や所属組織を異にするDと結び付いていつた過程に合理性を与えるものであるから、その内容において十分に信用できる事実が記載されているものである、(2)Cにとつて、被告人は所属組織の長であり、恩義を受けてきた者であるから、たとえ捜査官の背後関係の追及から逃がれたいとの心境にあつたとしても、教唆者の名前だけを被告人にすり替えて、自己の受けた教唆の事実を供述するということは、その結果当然予測される被告人の逮捕という重大な事態を考えれば容易に理解できないところであるうえ、Cは、C検面調書の作成当時、暴力団から身を引く決意を固め、同調書作成の際も涙を流しながら、被告人からの教唆事実を述べたことや被告人逮捕直後は、丙組関係者からの面接を拒絶し、接見に訪れた弁護人にも十分な弁護をしてくれない旨の不満を捜査官にもらしていたことが認められるなど、C検面調書の作成状況等には、供述内容を信用できることを窺わせる多くの事実が存在する、(3)Cは、被告人から教唆された旨の供述を翻えした後は、いたずらにとうてい措信しえない内容の、Dから応援を依頼されて本件に及んだ旨の供述を繰り返し、また、B組長殺害に用いたけん銃二丁の入手先についても唐突な供述に終始していて、その内容において納得できるものがほとんどない状況にある、などと判示する。

(三)  C検面調書の信用性の検討

記録によれば、被告人が組長をしている山口組傘下Z組内丙組の組員であるC、同Z組内甲組(組長甲)若頭補佐のD、同丙組内己組組員のE及び同甲組内戊会(会長L)石川県支部組員のFの四名は、同支部支部長Gらと共謀のうえ、昭和五二年四月一三日(以下、年を表示しないときは昭和五二年を指す。)福井県□□郡三国町△△○番地珈琲専門店「」に赴いて、同店内にいた元Z組内丁組の組長BをE及びFの両名において、所携のけん銃で射殺したことは明らかであり、その動機、原因が少くとも右甲組の下部組織である戊会と丁組との対立抗争にあつたこと及びこのような組織的背景と北陸地方で最大規模の暴力団組織の長であるBを殺害するという重大なことについて、平素さほどの親交もなかつたC、D及びFらが独自に計画したうえ、敢行したものとはとうてい考えられず、組上層部からなんらかの指示、命令があり、これに基づいて実行されたものであることはほぼ疑いの余地のないところである。そして、かかる計画が実行された場合には、当然に丁組からの報復が予想され、深刻な対立抗争に発展する危険をはらんでいることも明らかで、このような重大事をCが自己の直属の親分である被告人に無断で敢行するということは、通常考えがたいところであり、加えて、Cは、B殺害に至る経緯につき、捜査の初期にはFの依頼による旨供述し、次いでDに相談を持ちかけられたものである旨述べ、さらに差戻前の当審に至つて、教唆者は被告人以外の者で、その名前はいえない旨供述し、また、けん銃、実包の入手先や現金約二〇〇万円の出所についても、とうてい納得のいく供述をしていないこと及びCが捜査官に対し被告人が教唆者である旨虚偽の供述をした理由として述べるところは、実際には親分から教唆されたことはなかつたので、そのことによつて親分が逮捕されるようなことにはならないと思つたから、というのであつて(Cの差戻前当審供述)、とうてい首肯できる説明であるとはいいがたいこと等も認められる。以上の諸点に徴すれば、C検面調書の信用性を認めた原判決の判断も、それなりに理解できないわけではない。

しかしながら、C検面調書の内容及び同調書の作成過程について、さらに詳細に吟味してゆくと、以下に述べるような少なからざる疑問点を払拭することができない。

1 原判決がC検面調書を信用できる理由として、四月二日から福井へ出発する同月七日までのCの言動に基づいて第三者からの働きかけのあつたことが推認されると説示するところは、それ自体はそのとおりであつて、その働きかけた者として、Cの親分である被告人が想定されるのが通常であるといいうるけれども、次のような事情にかんがみれば、Cに働きかけたものとして、被告人以外の者が考えられなくはない。すなわち、記録によると、

(イ) Cは、昭和三三年ころ、被告人と同じ広島県呉市の出身ということもあつて、被告人の配下となつたが、一方、甲組副組長(舎弟頭)で乙組組長でもある乙ことT(以下「乙」という。)ともそのころから兄弟分のちぎりを結んで親交を続けるうち、昭和三七年ころ暴力団X組が北陸へ進出した際、被告人に黙つて地元の暴力団Y組の加勢に乙や甲組の若衆とともに赴き、金沢に半年位滞在したことなどもあつたことから、大阪へ戻つたCに甲組からいわゆる貰いがかかり、Cがその旨被告人に話したところ、Cの態度に機嫌をそこねた被告人から呉へ帰つて堅気になるようにいわれて、事実上破門処分となつたものの、Cは呉市へ帰ることなく約四年間乙を頼つて大阪にとどまり、その間乙から金銭的援助を受けるなどの生活上の面倒をみてもらい、その後呉市へ帰つてからも時々上阪しては乙との親交を保ち、昭和四七年ころ丙組復帰が許されてからも、約一年間同組で生活したほかは、乙の世話で同人の自宅近くのマンションを借りて住み、連日のように乙組事務所へ出入りするといつた生活を送つてきており、丙組事務所へは、昭和五二年中には正月と二月ころ各一回顔を出しただけであること、

(ロ) 丁組と直接対峙していた戊会は、甲組傘下にあり、とくに同組内でも乙組組長の乙は、戊会会長のLと兄弟分の間柄であり、自組の組員二〇余名を引き連れて、三月一日開かれた戊会の事務所開きに出席し、大阪へ帰つた後、丁組組員らに同事務所が襲撃されたことを聞き、戊会応援のため再度乙自ら配下組員を率いてLのもとに赴くなど、強力に戊会を支援していたこと、

(ハ) Cは、四月二日から、福井へ向かうまでの数日間、連日のように飲酒遊興したことが明らかであるが、その相手は、Iと、Cのもとを離れず行動をともにするようになつたEのほかは、乙、ら甲組ないし乙組関係者であつて、丙組関係者は加わつておらず、とくに、同月三日ころには、大阪市内のホテル「新東洋」において、乙がCのため送別会を開き、その時の出席者はIのほかは乙組の者らであつて、丙組の組員は参加しておらず、もとより他に丙組において、Cのために送別の席を設ける等した形跡は窺えないこと、

(ニ) 前記のとおり、Cは、かつて被告人に無断で地元暴力団の応援のため、乙らとともに金沢へ赴いた経験をもち、Cが被告人に承諾を求めることなく、組関係の抗争事件に係わることがありえないではないと認められること、

(ホ) Cは、福井へ出発する前に、Iに対して、今後のことの相談は乙にするようにいい、現にIは、Cが本件で逮捕された後、最初に乙の所へ相談に赴いていること

等の事実を認めることができる。以上の諸事実に徴すれば、Cの背後にいて、B組長殺害を教唆した人物として、被告人が想定できるのと同じように、乙や前記甲を想定することも不可能ではなく、これを裏書きするかのように、Cが、差戻前当審において、これまでの供述を翻えし、新たに、B組長殺害を持ちかけた人物は、名前のいえない「Aさん」であつて、その「Aさん」は、丙組を破門になつていた約一〇年間を含め、随分世話になつていて、「極道の仁義」もあつて、右の依頼を断れないような人であり、被告人と同じ位に恩がある人で、その人の立場上、Bをなんとかしなければならない人である旨供述し、「Aさんとは乙のことではないか。」との問いに対し「いえない。」旨供述するに至つているのであつて、このような情況に照らすと、Cの右供述を一概に虚偽と断定して排斥するわけにはいかないものというべきである。

なお、検察官は、当審における弁論のなかで、B殺害の背景事情とみられる抗争の当事者は、丁組対戊会、甲組のみならず、それらを含めた上位組織のZ組とみるべきであり、同組の傘下にある丙組の組長たる被告人が組員のCにB組長殺害を指示、命令することも当然であると主張するが、当審における検察官の立証を加味して検討しても、丁組の抗争相手がZ組ではないかと窺わせる節がないではないものの、それはあくまで推測の域を出でず、断定することは困難であり、まして、組織的な意思差配を根拠に、Z組から丙組に指示、命令が下されたことは当然であるとする主張にはとうてい左袒できず、たかだか、かかることも十分に考えうるというにとどまるといわなければならない。

2 C検面調書の供述内容についても、単に原判決のいうような、重大な内容の供述を録取した調書としてはその内容が簡略すぎるという程度にとどまらず、次のような問題点がある。

(イ) まず、C検面調書とC員面調書との間には、些細とはいえない食い違いが認められる。すなわちC検面調書の記載内容に対し、C員面調書の内容は、四月一日の被告人からの呼び出しの電話がかかつた時間が、午後七時過ぎころであつて、Cにすぐ着替えをして被告人方兼丙組事務所(以下「被告人方」という。)へ行つたというのであり、被告人方へ着いた際の状況も、被告人が事務所で一人待つており、Cを見た被告人に応接間へ通され、ここでB殺害を指示された旨の内容となつており、また、四月五日ころ、被告人方でCが被告人と会つた経過も、昼過ぎころ、「今から行きます。」という電話をかけて被告人方へ行くと、被告人はすでに事務所で待つていて、前回同様応接間に案内され、ここでCが、被告人に対してDと福井へ行くことになつたことや福井へは早く行つた方がよいなどと話をしたのち、被告人から、けん銃二丁、実包一二発を紙袋に入れたものと、現金二〇〇万円(裸のままで、一〇〇万円づつ帯封されていたものと思う。)を受け取つた旨の内容となつていて、四月一日被告人から呼び出しの電話があつた時刻や訪問の態様、四月五日ころの被告人方への訪問回数と態様、被告人がけん銃を用意するまでの経緯、被告人から渡されたときのけん銃、実包及び現金の状態といつた諸点について、記憶違いないし些細な内容の食い違いとして軽視できない供述の相違が存する。

(ロ) 次にC検面調書によると、被告人方へ行つた時の状況につき、四月一日は、事務所には顔を出さず誰の案内も受けずに応接間に入ると、被告人が一人で待つていたといい、四月五日の時も、一回目は事務所にいる若い者に被告人の所在を尋ねて、そのまま一人で被告人の寝室のある二階へ上がつて被告人を起こしたといい、二回目は、四月一日の訪問と同様に事務所に顔も出さず、誰の案内を受けることなく被告人の待つている応接間へ入つたというのであるが、被告人方の状況に関する<証拠>によれば、丙組事務所となつている被告人方は、道路に面した門の左側くぐり戸からのみ出入りができ、それ以外の戸は釘で打ち付けられるなどして閉鎖され、出入りできない構造となつており、しかも、出入口として使われている左側くぐり戸は、内側から施錠され、訪問者は、門側に設置されたインターホンを使つて事務所にいる組員に連絡をとり、内部の者から施錠を解いてもらつて(内部の者は、くぐり戸に埋め込まれたドア・スコープで外にいる相手を確認したうえで施錠を解く。)中に入り、被告人に用がある者は、組員の案内で事務所に待機し、組員が被告人と連絡をとつたうえで被告人と面会するという仕組みになつていて、組員であつても同様に扱われ、また被告人方から外へ出る際は、事務所に待機している組員が送り出して、必ず内部から施錠することとされており(なお、J証言によれば、当番の組員や被告人の秘書役のJの案内もなく、一人で被告人の寝室がある二階へ上がり、被告人と寝室内で会うようなことは考えられない、という。)、以上のような状況は、C検面調書の前記供述内容と甚だしくそごするものといわなければならない。

3 また、C検面調書の作成経過についてみても、前判示のとおり、C員面調書が作成されたのは、六月一七日か同月一八日である疑いが濃厚であつて、Cは、四月一三日の逮捕以来、約二か月に及ぶ身柄拘束の下で、ほぼ連日にわたつて堂山警部補らの取調を受け、しかも、C起訴後は、その重点が背後関係の究明に置かれ、同警部補によつてそのような追及を受けた結果、Cが被告人によるB組長殺害の教唆等の事実を供述し、そのうえ、前説示のように、接見禁止決定がなされているのに、堂山警部補が裁判所の許可なくCにIを三回にわたつて面会させる等の便宜をCに与え、同人においても、これらを同警部補による特別の計いとして感謝していたことが認められるのであつて、これらの事情は、前判示のとおり、いわゆる「特信性」を否定する事由とはなしえないもののC員面調書にとどまらず、C検面調書の信用性評価に当たつても、無視できない要因の一つに挙げられる。

叙上のようなC検面調書が内包する問題性は、当審における事実取調の結果によつても解消されるに至らなかつた。

(四)  被告人のアリバイに関する主張について

1 原判決は、被告人がCにB組長殺害を教唆した日時場所を四月一日の午後七時ころ被告人方と認定し、C検面調書中には四月一日ころと幅のある記載もあるが、高木検察官は原審においてCは自己の面前で四月一日と明確に特定した供述をした旨証言しているところ、被告人は、捜査及び第一審においては、四月一日の自己の行動については記憶がない旨供述していたが、差戻前当審第六回公判以降、四月一日午後七時ころには、当日新規開店した大阪市南区××町△△番地所在のスナック「W」(以下「W」という。)において飲酒していた旨主張するに至つた。その要旨は、次のとおりである。すなわち、「被告人は、三月二九日、友人のPとともに、被告人とかねて親密な関係にあつたことO(以下「O」という。)を同伴して上京し東京ヒルトンホテルに二泊したのち、同月三一日、東京駅から午後三時か四時ころ発の新幹線に乗車して夕方大阪に着き、同夜は、Oと大阪市天王寺区生玉町所在のホテルニューオータニに投宿した。翌四月一日は、午後三時ころ起床して入浴し、外で食事をしたのち、当日はOの友人であるM(以下「M」という。)が「W」を新規開店する日で、Oも臨時のホステスとして手伝うことになつており、同店の開店祝として贈る品を大阪市内心斎橋筋を歩き回つて、輸入雑貨小売店「」から、アラバスター製のオーム像(石像)を買い求め、これを二人で持つて「W」へ向かつたが、オーム像が重かつたため、途中の公衆電話から、迎えにきてくれるように「W」へ電話し、被告人らが「W」の前に着いたころ、迎えに出ようとしていたMに会い、同女にオーム像を渡して午後六時過ぎころ、「W」へ入つた。被告人は「W」の開店第一号の客であり、M、同女の夫N、ホステス、バーテンらを自席に招いて飲酒するうち、午後八時ころになつて、ようやく二番目の客(Qら三名)、三番目の客(R)と順次来店したので、そのころ被告人は一人で同店を出て、近くの被告人の馴染みのクラブ「」、「」で飲酒したのち、翌四月二日午前零時ころ、同店のホステスらを伴つて「W」へ戻つてここで約一時間飲酒したのち、被告人はOに同店閉店後近くのゲイバー「」にくるように伝えて同店へ赴き、同日午前二時過ぎか午前三時ころ迎えにきた同女とともにホテルニューオータニに帰つて宿泊した。」というのである。

2 被告人のアリバイ主張に関する証拠としては、被告人の差戻前当審及び当審各供述のほか、これを裏付ける<証拠>が存在する。

3 ところで、被告人の前記アリバイ主張は、差戻前当審第六回公判(昭和五五年一月一七日開廷)に至つてなされたことが記録上明らかであるところ、一般に時機を失した段階でなされる被告人のアリバイ主張は、その信用性の判断において、慎重な配慮を要するものであることはいうまでもない。そこでまず、被告人のアリバイ主張に至つた経緯をみると、次のとおりである。すなわち、被告人に対する差戻前当審第一回公判前の昭和五四年五月に開催された弁護団会議の際、被告人の友人Pから、昭和五二年春ころは、何度も被告人と一緒に上京しているので、宿泊先の領収書があるはずだから探してみる旨の発言があり、次いで昭和五四年八月ころ、右Pから、宿泊先の東京のヒルトンホテル発行の昭和五二年三月二九日から同月三一日までの分と同年四月一二日から同月一四日までの分の二通の領収書が弁護人の下へ送付され、渡邊俶治弁護人において、これをもとに被告人に対し記憶喚起を試みたが、被告人は当時の状況について全く記憶が蘇らず(なお、右二通の領収書は、差戻前当審第四回公判において、被告人の当時の行動を示す情況的証拠として証拠申請され、同第六回公判において採用され取り調べられている。)、さらに同弁護人が、同第五回公判が開かれた昭和五五年一月一一日の午前中、金沢刑務所で被告人と接見した際、右の領収書のうち、四月一二日から同月一四日までの分には、宿泊した二つの部屋それぞれから韓国へ国際電話をかけたようになつているが、三月二九日から同月三一日までの分の領収書には、右Pが宿泊した部屋からは同様の電話がかけられた旨記載されているのに、被告人が宿泊した部屋からはそのような記載のないことに疑問を感じて、この点を被告人に質問したところ、被告人は、前者の領収書の分は被告人及び右Pとそれぞれ同宿した韓国女性が電話をかけたものと思われるが、後者の領収書の分については「ひよつとしたら広島の電話番号××××番のクラブに勤めている女性が、その友達の新規開店するバーかスナックの手伝いに行くといつて大阪へきた際に、その女性を連れて上京したことがあるので、そのときのことかもしれない。」旨答えた。そこで同弁護人は、当日の公判終了後、被告人の配下組員のJに右新規開店したという店の存在と開店日を調べるよう指示したところ、その日のうちに、丙組若頭Kを通じて「店の名はスナックWであつて現在も営業していること、その開店日が四月一日で、その日被告人が一番目の客として、大理石の馬の首のような格好の置物を持つて行つているらしい。」旨連絡を受けたため、翌日の昭和五五年一月一二日「W」へ赴き、経営者のMから右報告どおりであることを確認するとともに、四月一日から一一月二〇日までの前掲売上帳簿を預り保管するなどし、また、その日夜半広島から着いたO(被告人のいう広島××××番の女性)からも事情を聴取した。その後、同弁護人において、開店当日「W」へ来店した客にも面会して当時の状況を聴取したほか、昭和五五年一月一四日「本店」へ赴いて、営業部長のUに対し四月一日ころオーム像が販売された事実があるか確認を求めたところ、同人の態度が非協力的で即答をえられなかつたため、同年一月一六日大阪弁護士会を通じて右の照会をしたが、再三の催促にもかかわらず、同店からの回答はえられず、結局、この点の確認がとれないまま、前記のとおりの内容のアリバイ主張がなされるに至つたことが認められる(<証拠>)。

叙上のような被告人のアリバイ主張がなされるに至つた経緯に照らせば、アリバイが差戻前当審第六回公判においてはじめて主張されたことをもつて、ただちに唐突で不自然な主張であるなどとはいえない。のみならず、被告人のアリバイ供述を裏付ける証人M、同Oらの各証言をみても、その内容自体に格別不自然、不合理と評すべき点が見当たらないばかりか、被告人と親密な関係にあつたO証人はともかくとして、M証人らは、被告人とさほど強い利害関係を有しているとまでは認められず、とくにM証言は、四月一日が同女にとつてはじめて持つた店の開店日であり(この点は証拠上動かしがたい事実とみられる。)、かつて大阪市内のクラブで一緒に働いていたころからの友人であるOが、広島からわざわざ店の手伝いに駆け付けてくれた際のできごととして、被告人がOとともに、開店祝の品を持つて開店一番目の客としてきてくれたことを鮮明に記憶している、というのであつて、その記憶は十分の根拠を有しているように考えられる。

4 アリバイ発見の経緯が前叙のとおりである以上、被告人のアリバイに関して、被告人や前記各証人らの間で口裏を合わせ、前記売上帳簿に偽りの記帳をするなどしてこれを偽造、改ざんする等のアリバイ工作をした形跡が窺われない限り、アリバイに関する右各証言等の信用性を否定することは困難であるといわなければならない。ところで、かりに被告人において、当初から、後日自己の犯行が発覚して裁判になつたときに備え、計画的にこのようなアリバイ工作をしていたのであれば、被告人が捜査段階において、あるいは少くとも第一審公判において、真つ先に主張して然るべきであるのに、前記のような内容の供述にとどまつたということは、それ自体、アリバイ工作のなかつたことを有力に物語るものといいうるのみならず(そうでなければ、被告人が、このような評価をうるため、故意にアリバイ主張を差戻前当審第六回公判まで遷延させていたことになるが、そのようなことをうかがわせる証拠は存しない。)、アリバイ主張に至つた経過が前認定のとおりであれば、その間に、関係者の口裏合わせや売上帳簿の偽造、改ざん等を行なう時間的余裕は存しないというべきであり、また、そのような工作の存在を疑うべき証跡も認められないというほかない。かえつて、アリバイの主張に必要、不可欠とまではいえないオーム像の件について、前記渡邊弁護人において、自らその購入先と認められた「本店」に赴き、あるいは弁護士会を通じて照会するという調査方法をとつて、オーム像販売日時の確認の手立てを講じたが、右の協力や右照会に対する回答がえられない時点、すなわち、同店において、四月一日オーム像が販売されたことの裏付けがとれない状況のもとで、被告人はもとより、M、Oらもオーム像の点を具体的に供述していることは、アリバイ工作がなかつたことを窺わせる事情であるし、被告人も、差戻前当審における被告人質問において、被告人らがオーム像を購入したという店につき、弁護人が「本店」を念頭に置いて誤導尋問をしているにもかかわらず、「道頓堀から心斎橋筋を大丸の方へ向かつて右側にあつた。自分はこの店だけしか知らない。」旨供述し(ちなみに、「本店」は向かつて左側にある。)、図らずも、検察官による質問でその求めによつて被告人が作成した店の図面には、「北店」の位置を示し、さらには、から「W」までの道順と同店に着く前にOが同店へ電話をかけたという公衆電話の位置も図示しており、これらの位置は、当審において取り調べた受命裁判官の検証調書(昭和六〇年三月二八日実施のもの)によると、いずれもほぼ正確なものであることが認められるのであつて、これらの事情もアリバイ工作がなかつたことを示すものということができる。

5 ところで検察官は、当審における弁論において、オーム像は、被告人とOがこれを持参して「W」の開店当日に来店した旨の前記M、Oの各証言を補強する裏付け証拠として重要な意味をもつものであるから、その販売日が三月三一日であるのか、四月一日であるのかは、同証言の信用性に重大な影響を及ぼすものというべきところ、「北店」において、四月一日にオーム像が販売された事実は存しないから、右各証言は信用するには足らないものであり、「W」の前記売上帳簿の記載も被告人が同店開店第一号の客であることを示すものとまでは認められないから、被告人のアリバイ成立は否定されるべきとして、次のとおり主張する。

(イ)  「北店」の保存用レシート、業務日誌及び売上ノートの三資料を照合すれば、当日の売上実績を把握することができ、当日商品を売り上げておきながら、右三資料のいずれにも、その旨の記載や打刻がないということは考えられないから、同店でオーム像を販売したのは、三月三一日午前五時過ぎから午後六時ころまでの間であつて、翌四月一日に販売されていないことは明らかで、前記MやOの各証言等と矛盾する。

(ロ) 弁護人は、被告人らが三月三一日の午後四時五八分か午後五時一〇分着の新幹線で新大阪駅に到着して、その足で「北店」まで赴いて午後五時過ぎから午後六時ころまでの間にオーム像を買うことは不可能である旨主張するが、当審で新たに取り調べた前掲受命裁判官の検証調書(昭和六〇年三月二八日実施のもの)によれば、新大阪駅新幹線ホームからタクシーを利用して「北店」に到着するまでの所要時間は約三〇分であつて、必ずしも不可能ではない。

(ハ) 前記「W」の売上帳簿の記載をもつて、被告人が開店第一号の客であることを裏付けられるものか疑問なしとしない。第一に、前記M証言によれば、同帳簿の記載は、バーテンが売上伝票に客の来店順序を示す番号を付しているので、閉店後その順番に従つたというのであるが、スナックの通常の営業形態において、客の来店順序はとくに関心を持たれるようなものではなく、売上帳簿への記載も客の来店順になされなければならない必要性もなく、また、同証人において、来店順に記載することを意識してなされたともみられないこと、第二に、売上帳簿の四月一日分の記載によると、客の来店順序は、被告人、Q、R、Sの順ということになるが、証人Sの差戻当審供述によれば、同人が同日午後七時ころ、「W」へ入つた際は、店内に他の客はおらず、同店右奥の席でM、N及びOらと三〇分前後飲酒したが、そのころ他の客がきたので店を出た、というのであつて、右Sがその来店時刻から四番目の客とはみられないばかりか、被告人が開店第一号の客として右奥の席にいたというのであれば、当然に同じ席で飲酒しなければならないのに、そのような事実はないので、そのころ被告人は来店しなかつたことになるのであつて、右売上帳簿が偽造、改ざんされたとまではいえないとしても、売上伝票も存在せず、その実態を確認できない現段階において、その記載方法が来店順になされたとまでみることはできず、右M及びOの各証言を裏付けるに十分とはいえない。

そこで、まず業務日誌、売上ノート及びレジシートの正確性について検討すると、証人Uの差戻前当審供述、当審で新たに取り調べた同人及びV(二通)の検察官に対する各供述調書、「北店」の売上ノート(前同押号の22)、業務日誌(同号の23)及びレジシート(同号の24、25、27ないし45)等の証拠によれば、なるほど、そのいずれにも、四月一日にオーム像が売り上げられたことを示す記載や打刻がなく、三月三一日にこれを示す記載と打刻があることは争いの余地がない。しかしながら、業務日誌及び売上ノートについては、これをレジシートと対比すると、レジシートに打刻されていながら、業務日誌と売上ノートにこれに相当する記載を欠くものが多数存することが明らかであり、また、業務日誌に記載されながら、売上ノートに記載のない品が存することも認められるうえ、売上ノートは、売上金額の算出や在庫数の確認等のために記載されるものではなく、業務日誌を書くための資料として、商品売り上げの都度、担当した店員によつて記載されるメモ書き程度のもので、その記載自体についてもとくにやかましくいわれているものではなく、ある程度高額の商品が売れた場合でも記載もれがありうるというのであり、また、業務日誌も、売り上げの傾向を把握し、その状況を社長に報告するためのもので、全売り上げをもれなく記載するわけではないことが認められ、そのいずれについても、記載が正確なものであるとはいいがたい。もつとも、業務日誌について、前掲Vの検察官に対する昭和五九年八月九日付供述調書中には、インテリア部門を社長がとくに注目していたので原則として全部記載するようにしていたという供述があり前掲Uの検察官に対する供述調書にも、金額の小さな商品は省略し、大体三〇〇〇円から五〇〇〇円程度をめどにそれ以上の金額を記載していると思う旨の供述があるけれども、業務日誌とレジシートを対照すると、業務日誌に、一方では八〇〇円程度の品物の記載がありながら、他方では三〇〇〇円ないし五〇〇〇円を超える金額についての記載もれが散見されるなど、右の趣旨が必ずしも一貫されているわけではない。したがつて、当日の売上ノートや業務日誌に記載されたものは、当日販売されたとの推認が働くけれども、逆にその記載を欠くことをもつて、当日記載されたもの以外の売り上げがなかつたことになるものではないことが認められる。さらに、レジシートについてみると、「北店」の三月三一日分(前同押号の24)と四月一日分(同号の25)として取り調べられたレジシートには、いずれも「31 MAR 78」「1 APR78」と打刻され、昭和五二年の分であれば、右の「78」は「77」でなければならないことは明らかであり、しかも、当時同店で使用していたと認められるNCR電子レジスターの日と月の表示は機械の外側にある装置を操作するだけでこれを変えることができるが、年の表示は機械を開けて内部にある装置をドライバーで動かさない限り変えることはできない、ということであれば、右の誤りは業務の通常の過程で自然発生的に生じたものとみることができないことは上告審も指摘し、弁護人も当審において取り調べた右レジスターの使用説明書の立証趣旨のなかで主張しているところである。そこで、同レジスターの年月日の変更装置について検討すると、当審で新たに取り調べた右使用説明書、司法警察員作成の昭和五九年八月一一日付実況見分調書、の司法警察員に対する供述調書及びの検察官に対する供述調書等の証拠によれば、前記レシートの「78」の打刻は、検察官が弁論において主張するとおり、「北店」において故意に打ち直したものとは認められず、業務の通常の過程で生起した単なる打刻の誤りということができる(すなわち、右各証拠によれば、右レジスターの年月日の変更装置は、レジスター左側面のボデー中央部に設置された円筒型のもので、その最頂部のマイナス溝付きシャフトと、輪切り状の三個に区切られたダイヤル式つまみから成り、右マイナス溝付きシャフトを回転させて年度を、三個に区切られたダイヤル式つまみを操作して月と日をそれぞれ変更するようになつているが、年度表示の変更は、通常右マイナス溝部分を工具、硬貨を使用して回転させて行うものの、右シャフトが非常にゆるいため指の爪でも回転させることができ、また、右ダイヤル式つまみは手動によつて作動させ、その際の操作方法によつては年度変更用シャフトも一緒に回転してしまうことがあり、さらには、レジスター自体に加えられた振動によつても右シャフトが変動してしまうことがあることが認められ、これらに、前記レジシートの前後の日付のレジシートや集計紙に打刻されている精算番号の連続性等を併せ考えると、単なる打刻の誤りと認めるのが相当である。)。しかしながら、前記のとおり、四月一日前後のレジシートには売り上げ金額の打刻がないのに、売り上げノートや業務日誌に記載がある箇所が少なからず存するほか、実際問題としても、「北店」においては、客の立て混む忙しい時間帯(前掲Vの検察官に対する昭和五五年四月三〇日付供述調書によれば、午後五時過ぎころからの時間帯が最も客が混むことが認められる。)に、レジスターの打ち忘れがあることが認められ(前掲Vの昭和五九年九月一二日付及び同Uの同月一一日付検察官に対する各供述調書)、その金額も、必ずしも少額の商品が販売された場合に限られるものでもなく、したがつて、レジシートの打刻のないことをもつて、打刻のない商品が販売された事実がないと断ずることもできないというべきである。このような売上ノート、業務日誌及びレジシートの記載や打刻の方法等に徴すれば、売上ノートや業務日誌の三月三一日の欄に記載された「オーム置物58.000」及び同日分のレジシートに打刻された「58.000」の打刻が、被告人らが購入したオーム像の売り上げに対応するとの断定はできないとともに、逆に、売上ノートや業務日誌の四月一日の欄にこれに相当する記載がなく、同日分のレジシートにその打刻がないことをもつて、疑問の余地なく、同日オーム像が販売されていないことを示すものと認めることもできないといわざるをえない。

次に、検察官は、三月三一日に被告人が「北店」において、オーム像を買うだけの時間的に可能性があつた旨主張し、当審で取り調べた前掲検証調書によれば、検証当日における国鉄新大阪駅から、「北店」までのタクシーを利用した場合の所要時間は、おおよそ三〇分であつて、これを前提にすると、被告人が新大阪駅に午後四時五八分ないし午後五時一〇分に着いたとしても、そのまま同店まで直行すれば、午後五時三〇分ころから午後五時四〇分ころまでの間に同店に着き、そのころ、オーム像を購入することも不可能ではない。しかしながら、右の所要時間が三〇分といつても、常にそうだというわけではなく、交通の混雑状況等により大きく左右されることが考えられ(証人Pの差戻前当審第一四回公判供述によると、同人が同様の方法で測定した結果では約四〇分かかつたという。)、また、被告人らが三月三一日に購入したとすれば、翌日開店予定の「W」へ贈る品物の購入のため、新大阪駅へ到着早々、衣類等の入つたスーツケース等の荷物を持つたまま(前掲P証人の供述、被告人の差戻前当審供述)「北店」へ直行してオーム像を購入したうえ持ち帰つたことになるか、被告人らは、「北店」の存在をあらかじめ知ることなく、まして開店祝の品物としてオーム像を贈ることに決めていたわけでもなく、開店祝に贈る品物を探して心斎橋筋の商店を見て回つたという経過(前掲O証人の供述、被告人の差戻前当審供述)からみると、被告人らに、同日のうちに購入する時間的余裕があつたといえるか疑問であるのみならず、被告人らには、大阪へ到着したその日のうちに、オーム像を購入しなければならない必要性も認めがたいところであつて、これらの事情は、むしろ、被告人らが同日オーム像を買つたことを否定する方向に働くものといえよう。

さらに、検察官は、前掲売上帳簿の四月一日の欄冒頭に、被告人の氏名が記載されていることをもつて、被告人が「W」開店の一番客であるとみることには疑問があるとして、まず、右売上帳簿には客の来店順に従つて記載される必要性も、そのように意識して記載された形跡もない旨主張する点についてみると、たしかに、スナックの通常の営業形態にあつては、客の来店順序が重要な意味をもつものとは考えられないけれども、店の売上伝票を切る際、客の来店順に番号を付し、後刻売上帳簿に記載するとき、その番号に従うこと自体なんら異とするに足りず、その必要性に乏しいということから、右記載の信用性が否定されるものではなく、もとより、右売上帳簿の偽造、改ざんを疑わせる証跡も存しない。また、客の来店順序に関する検察官の主張についても、なるほど、証人Sの差戻前当審供述に従えば、同日午後七時前後ころは、「W」に他の客は誰もいなかつたというのであるから、その時点では被告人は来店していなかつたことになり、来店順序に関する売上帳簿の記載が誤つているということになるが、同証言がそのまま措信できるかどうかははなはだ疑わしい。すなわち、同証言を仔細に検討してみると、同証言は「Wへ行つた時間は午後七時ころと思うがはつきりしない。そのときははつきり覚えていないが、客はいなかつたように思う。」というのであつて、それ自体曖昧であるのみならず、その際、同人が座つた位置(被告人が着席したテーブルと同じ位置と認められる。)についても、右Sは、その後も数回来店し、同じ場所に座つたことがあるとも述べて、そのときと混同している疑いもあり、また、同人が「W」へ赴くまでの間の行動についても、パチンコをしたような記憶もあるがはつきり覚えていないし、「W」店内の状況も、女の子はMとOのほかにいたかどうか記憶しておらず(当日、他に五名位のホステスがいたことは、売上帳の記載、Mの差戻前当審証言等により明らかである。)、同店を出てどこへ行つたか全く記憶になく、後日同店に赴いたときのことは記憶していない、開店当日同店へ行つたことは、広島から手伝いにきたという美人のホステス(Oを指すことは明らかである。)がいたことから記憶に残つている等という内容のもので、同証人が同店に来店した時間、その際の店内の状況を確定するにはあまりにも不正確な供述というほかなく、同証言によつて、被告人が開店第一号の客であることを示す売上帳簿の信用性が否定されるものでないことは明らかである。したがつて、被告人のアリバイに関し、検察官が主張するところは、いずれも採用することができない。

以上のとおり、被告人のアリバイに関する主張については、これを裏付ける幾多の証拠が存し、しかも、検察官の立証にもかかわらず、被告人が四月一日夕「」でオーム像を買つた可能性を否定しえない点を始めとして、これらの証拠の信用性を覆す事情を見い出すことができず、したがつて、被告人のアリバイ主張を虚偽だとして排斥することはできないといわなければならない。

かくして、これまで検討してきたところによれば、C検面調書の信用性については、同調書の内容及び作成過程に問題点が存し、これらが記録を精査し、当審における事実取調の結果によつても解消しなかつたことに加え、同調書の内容と両立しがたい被告人のアリバイ主張を排斥できないことに照らせば、結局、C検面調書の信用性は否定されなければならず、他に被告人の本件公訴事実について有罪を認定する証拠は存しないから、原判決が、C検面調書の信用性を肯定して、被告人に対して、本件公訴事実につき有罪と認定したのは、同調書の信用性の評価を誤つた結果、事実を誤認したものというべきであつて、この誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由がある。

第三破棄自判

以上判示したとおり、C検面調書の証拠価値については多くの疑問点があり、これらを解明するに当たつて原審で看過された証拠上の問題点は当審においてほぼ証拠調べを終え、これ以上に被告人を有罪とする新たな証拠が発見されることは事実上困難であると認められるので、当審で自判するのが相当である。

よつて、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決中被告人に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書に従い当裁判所においてさらに判決する。

被告人に対する本件公訴事実は前記のとおりであるが、さきに説示したとおり、これを認めるに足りる証拠がなく、結局本件公訴事実についてはいずれも犯罪の証明がないことに帰するので、刑訴法四〇四条、三三六条後段により被告人に対して無罪の言渡をする。

以上の理由により、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官杉浦龍二郎 裁判官三浦伊佐雄 裁判官松尾昭一)

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